風ニ負ケヌ草トナリ、雨ニ負ケヌ花ヲ咲カセル。私ハソンナ人間デアリタイ。


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カテゴリ:鎮魂の辞( 29 )

難事に接してわかる日本人の真価

 毎週月曜早朝、特定の方だけに配信している「今週の朝礼」を今日は鎮魂の祈りを込めて、転載致します。



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 バングラデシュの首都ダッカで起こったテロ事件で、7人の日本人の命が奪われました。今回犠牲になったのは観光客ではなく、国際協力事業として現地のインフラ整備などのために働いていた方々でした。ですからこれは殉職と言っていい出来事です。



 日本人の代表として現地の人々のために平和的な献身努力をしてきた善意に対する余りにも酷い無理解と誤解が招いたテロには言葉を失います。しかしこうした事件に屈して、我が国の世界貢献への純粋な思いが挫(くじ)かれることがないことを祈りたいと思います。



 旧ソ連とアメリカは、アフガニスタンで始めた代理戦争によって、タリバン、アルカイーダ、イスラム国などの過激組織を育てるきっかけを作りました。一方日本人は、その戦いの大地アフガニスタンで、畑を耕し種を植え農作物を育てる術(すべ)を教えてきました。



 2008年そのために尽力していた伊藤和也さんという31歳の若者は、テロリストに拉致され銃で撃たれて亡くなりました。しかしその伊藤さんらの努力で、かつての荒れ果てた土地に、今では豊かな菜の花畑が広がり、苺やトマトなどが収穫されるようになりました。



 こうした活動の中心にあるJICA国際協力機構については、上のほうについては政治的匂いや役人の天下り先などの批判もあります。しかし、少なくともそこでプロパーとして働き海外へ出て活躍している人々には純粋な思いがあることもまた間違いないことです。



 今、世界各国では外国のことなどにかまわず、自国民さえ幸福になれば良いのだという「内向き」の考えが幅を利かせ人気を集めています。日本でも、平和的支援活動に行って殺されたのでは間尺に合わないないからやめてしまえという意見があるのも事実です。



 しかし、幸か不幸か天が日本人に与えた気質の中には、おせっかいでお人よし、困っている者を見過ごせないという性質があります。また良きにつけ悪しきにつけ、忍耐強く勤勉に真面目に命懸けで働くということにかけても世界に類例のない国民性を持っています。



 その上、悲しみや怒りや恨みなどの感情を暴発させずにぎりぎりで耐える感性も多くの日本人が持っています。犯罪や天災の被害に遭った人や家族の言葉、夫が重大な罪と裏切りを犯したにも拘らず取り乱すことなく毅然と堪える妻の姿などを見るとよく解ります。


 天が私たち日本人に与えたもうた仕事は何か。荒涼たる大地だったアフガニスタンに広がる菜の花畑の映像を見ると、ひとりの日本人青年が描いた夢が、あきらめずに追い求めた夢が、命は果てても生き続けた夢が、私達の心に伝わってくるような気がします。



by masami_ws | 2016-07-04 10:02 | 鎮魂の辞

蓋棺事定…棺を蓋いて事、定まれり

 今日大阪で開かれた株式会社シンドウ工業創業者、佐藤元昭相談役を偲ぶ会に列席させていただいた。スーパーカブ1台、身ひとつから50年、今日のシンドウ工業を作り上げてこられた佐藤相談役は、関西大学応援団OBとしての厳(いか)つい風貌の下に限りなく優しい心を秘めた方だった。
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 「ウチの3KMは個人、家庭、会社じゃなくて金力、権力、暴力や」などと悪者ぶっていたが、実は偽悪者。照れがそんな風に言わせていたのだろう。趣味も多彩で、なんと46歳から始めて六段にまでなった剣道では、大阪本社と小豆島研修所に本格的な剣道場まで作ってしまった。
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 実はオイラが剣道を始めたのはこの姿を見たからだ。剣道を始めたと言ったら手を叩くように喜んでくださり、今年初段を取った時にいち早くお祝いを届けてくれた。そのほかにもドラムやキーボードなどの楽器演奏、60歳を過ぎて始められたスキューバダイビングなど、その好奇心と探究心は少年のままだった。
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 海に面した小豆島の研修所で、社員に食べさせるのだと、ナマコや小魚を獲って海から上がってきた姿は今も目に焼き付いている。夜の世界でも武勇伝は尽きず、新地では知らない人がいない存在だったようだ。なにせ男も惚れる男。男を見抜く目に長けた夜の世界の女性たちにも抜群にモテた。
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 そんな人を偲ぶ会は、とても華やかでまったく湿っぽさのないものだった。本人が大好きだった「涙をふいて」や「時間よ止まれ」などがジャズっぽくアレンジされて生演奏される中、仕事関係者、剣道関係者、ロータリークラブ関係者、艶やかな女性たちなど、故人の人生の幅の広さを象徴するような多くの人々が飲み語らう素晴らしい宴であった。

by masami_ws | 2015-09-30 22:55 | 鎮魂の辞

医師 高橋亨平さんの生き方に学ぶ

 普段は、3KM経営塾会員向けに配信している「今週の朝礼」ですが、今週は多くの人に高橋亨平医師のことを知っていただきたく、ここに転載します。

今週の朝礼 2013.2.11. 

 先月22日、ひとりの医師が亡くなりました。その名を高橋亨平(きょうへい)さんと言います。高橋さんは、昭和46年から現在の福島県南相馬市で産婦人科医として働いてきた方で、取り上げた赤ちゃんは1万人を超えるというベテラン医師でした。

 高橋さんは2年前の震災後、多くの市民が避難し、多くの医師がいなくなった南相馬市で「やり残したことがある、自分のやれることをやらなければ」と地元に残って、専門以外の科目にわたって、残った住民のための診療を続けました。

 しかし、高橋さんのその強い意志とは裏腹に、体は病魔にむしばまれていたようです。震災の2ヶ月後、医師である高橋さんに大腸ガンが見つかり「余命半年」という宣告を受けたのです。

 自分の病状がわかってしまう医師が、こういう病気になること自体、たいへん苦しいことだったと思うのですが、高橋さんは「子育てのできる南相馬に、そして日本の復興のため、まだまだやり残したことがある」と、自らの病魔と戦いながら鉄のような意志で医療の現場に立ち続けられました。

 結果として、ついに入院を余儀なくされる昨年12月まで、ガン宣告から1年7ヶ月に亘って被災地の医療を支え続けた高橋さんには、平成24年度「産科医療功労者厚生労働大臣表彰」が授与されました。

 しかし先月22日の授賞式に高橋さんの姿はありませんでした。同じ日の午後、愛してやまない南相馬市内の病院で、医師高橋亨平さんは74歳のその生涯を終えたのです。

「幹部の十箇条」の第3条に
「仕事については一流であり、仕事観、使命感、人生観を確立していること」という一文がありますが、高橋さんの姿はまさにこのお手本のような姿だと思います。だからこそ、震災という大災害や自身の病、死というものに真っ向から立ち向かって行けたのだと思います。

 そして最後まで負けなかった。たとえ高橋さんの命は尽きても、その生き方に多くの医療関係者が共感し、あとに続こうとしていることを知ると、高橋さんはやはり、最後まで負けなかったのだと確信できるのです。
心からご冥福をお祈りしながら私達もこの高橋医師の生き方に学びたいものだと、しみじみと思います。
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by masami_ws | 2013-02-12 08:46 | 鎮魂の辞

永遠の無頼派、柳ジョージ

 あなたは
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最高にカッコいいミュージシャンだった。

 グループサウンズ末期の伝説のバンド「ゴールデンカップス」幻の実力派ブルース・バンド「パワーハウス」に参加していたのが42~3年前のことだからキャリアが半端じゃない。

 そしてジャパーニーズAORと言っていい「柳ジョージ&レイニーウッド」。とにかく、アナログ楽器編成でこんなにバランスのとれたカッコいい音を出すバンドは、二度と現れないと思っている。

 黒ボディー、白ピックガード、メイプルネックのストラトを弾くせいか、和製クラプトンなどと言われるが、絶対クラプトンより歌はうまい。むしろデイヴ・メイスンに近いと個人的には思う。

 本牧辺りのライヴハウスでは、酔っぱらって酷いことになっていたという噂を聞いたこともある。シャイで酔っ払いでギターと歌がうまい。うーむ、男として最高だ。

 レオ・セイアーのカヴァー「More Than I Say」(邦題は「星影のバラード」)や、アップテンポで歌う「テネシーワルツ」(亡くなる少し前の江利チエミとの共演が動画サイトにあったが今も観られるだろうか)もよかったなあ。

 「青い瞳のステラ、1962年 夏…」を聴きながら、故人にしか届かないような話ばかり書いてしまった。
by masami_ws | 2011-10-16 22:34 | 鎮魂の辞

Y社の失敗

 採用を中心とした人材コンサルタントY社がついに倒産した。数年前から、かなり厳しいという噂はあったが、残念ながらその通りの結果となってしまった。根底にある原因は二つだ。

 一つは、同社の商品である「採用コンサル」のベースにある考え方の問題だ。Y社のY社長のエリートにありがちな、以下のような考え方にについて、以前からその間違いを指摘してきた。

・世の中には優秀な人間とダメな人間しかいない。

・だから、企業は優秀な人間だけを採ることに全エネルギーを使え。

・教育など無駄。ダメなやつをいくら教育しても一緒だ。

 こうした、同社のパンフレットで繰り返された選民思想的人間観が誤りであることは、その考え方で採用した社員で運営されていたY社自体の破綻で、理屈で説明せずとも実証された。皮肉なことである。

 もう一つは、Y社長の企業理念の問題。以前からY社長の著書「千円札は拾うな」については、痛烈に批判してきた。

 書名の趣旨は「千円札を拾うような効率の悪いことをせずに一万円札を拾うことだけを考えろ」ということらしい。こんなことばかり考えているビッグトゥモロウ的若者を世の中に作ることは罪だ。千円札も拾わない彼らは落ちているゴミなど拾うわけがない。

 書中には、社員全員がタクシー通勤できる会社を目指す、ともある。社員たちの血と汗と涙で稼いだ利益の中から高いコンサル料を払う中小企業の顧客のことを考えたら普通は書けない。

 マスコミで話題になった、社内のバーに至っては笑止。「学生飲み」しかしたことがない若者が喜びそうなアピールだが、本当の大人の酒は「外で」「自分の金で」「知らない人もいる中で」しか味わえない。バーなんかどうでもいい。福利厚生の基本は、潰れない会社をつくることだろう。

 一時は一世を風靡したY社長は、才能ある優秀な人であることは間違いない。成功したからこそ、今回大きな失敗があったわけで、成功もしていない人には失敗もない。

 Y社長には以前からいちゃもんばかりつけてきたが、そういう意味ではぜひ今回の失敗を糧に、今度は本当に世の中に役に立つ会社として再起していただきたいと思っている。

 

  
by masami_ws | 2011-04-02 01:10 | 鎮魂の辞

陽はまた昇る

 
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 地震発生時は、杉並区某社の社長室におり、机の下で揺れに耐えていると、頭にコーヒーがカップごとこぼれてきたり、周囲の書棚などから物が散乱したり…外へ出ると、近所のブロック塀が!それにしても、鉄筋も入ってないぞ、この塀。
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 昨日のイトーヨーカ堂木場店パン売り場。なんにもない。

 この二日間は、ほとんどテレビニュースにかじり付いていた。ただただ涙、涙。
「不撓不屈」この国は負けない。この国の人々は負けない。

陽はまた昇る。

信じている。 
by masami_ws | 2011-03-14 00:32 | 鎮魂の辞

ラッシャー木村も…

 しばたはつみさんはまだ57歳だったのかあ。芸歴から行って68歳くらいだと思っていたあ…

丸善石油(懐かしい!)の「OH!モーレツ」のコマーシャルソングを歌っていたときはなんと17歳だったのか。いやはや、真の実力派シンガーだったのだなあ。

 ラッシャー木村さんは68歳だったのかあ。往年のリングでの貫禄では今は80歳くらいになっていると思っていたあ…

 A.I.やO.A.などではなく、ラッシャー木村さんが政界に出ていれば日本はもっと良くなったかもしれない…などと酔った勢いでラッシャー木村さんのマイクパフォーマンスを知っているごく一部のファンにしかわからんような記事を書いてしまったあ。

とにもかくにも冥福を祈らずにはいられない。
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何のカンケーもないが、ボンネットのフードパルジがラッシャー木村を彷彿とさせたために、仲間うちで密かに「ラッシャー木村グルマ」と呼んでいたN14パルサー。ダートラでの速さは伝説だ。
by masami_ws | 2010-05-24 19:23 | 鎮魂の辞

死んじゃったよ、銀嶺の覇者

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 ロニー・ジェイムス・ディオ。そう聞いて、ブラック・サバスのボーカルと言う前に、ああリッチー・ブラックモアズ・レインボーの初代ボーカリストね、と答えられる人はどのくらいいるのだろうか。うーむ、いきなり渋谷陽一な話題ですまぬすまぬ。しかしながら、死んでしまったと聞いたらやはり書かずにはいられない。

 ブリティッシュ・ハード・ロック(当時はメタルなどというチャラい呼び方はしなかった。あくまでも「ハード」ロックなのだ!)の一大潮流を作ったギタリストは、何といってもレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとディープ・パープルのリッチー・ブラックモアだ。
 
 キーボードのジョン・ロードとは、同じバンド内で鎬(しのぎ)を削りあう仲。ともにクラシックを基礎とするギタリストとキーボーダーだからこそロックの金字塔と言われるアルバム「マシンヘッド」が生まれた。

 しかし、ブラックモアのわがままだったのか、それともジョン・ロードのみならず天才ドラマー、イアン・ペイス、爬虫類系ボーカルの元祖イアン・ギランらの個性のぶつかり合いに疲れたのかリッチーが「俺の思う通りやりてえ!」と思った結果生まれたのが初代レインボーだった。

 リッチーはバンドを結成するにあたって、とりあえず俺のギターだけ光ればいいと思ったのだろう。手っとり早く無名のバンドを丸ごと買い取ってデヴューアルバム「銀嶺の覇者」をコサえた。その無名バンド…たしかエルフとかいう名前だった…のボーカルが一昨日死を報じられたロニー・ジェイムス・ディオなのだ。

 ところが、この風采の上がらないロニー・ディオが凄かった。リッチーにとっては、期待していなかったエルフという福袋の中にスンゴい掘り出しもんが混じっていたようなものだった。その後のレインボー人気は、リッチーのギターもさることながらこのロニーのボーカルによるところも大きい。

 確かに見た目はソバージュのオバサンみたいで決してカッコイイとは言えないロニーだが、しっかりと詩の中身を伝えてくるボーカルは、他に追随するものがない。
 ということで、ロニー・ジェイムス・ディオ最高の作品はレインポーのデヴューアルバム「銀嶺の覇者」。彼の人生を変えた一枚でもある。

 いやはや、こんなコアな話題についてきてくれたのは帯広のK・Aひとりだと確信しているが、あの紫のシンデレラ城のようなものが描かれたジャケットを見つけたら、ぜひ聞いてやって欲しい。67歳で亡くなったというロニーの二十歳の頃の歌声。ロック史に永遠に残る「銀嶺の覇者」を。
 
by masami_ws | 2010-05-20 18:57 | 鎮魂の辞

父の命日

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 今日は父の32回忌。
小雨の降る朝、若き日には陸軍航空士官だった父は、戦争では当たらなかった弾丸が今、貫通したかのように胸を押さえて倒れこんだ。心臓発作。それは椿の花が落ちるような鮮やかな死であった。

 31年前の出来事が、今朝体験したことのように思い出される。生きていたら86歳だが、体力抜群、頑健そのものといった父がよぼよぼのジジイになっているのは想像しにくい。すこし早い死もまた受け入れるべき宿命だったのかもしれない。

 高潔にして温厚、理性的だが情熱的でもあった父は、息子のオイラが言うのもなんだが、誰からも好かれたようだ。理学博士号を持つ理論家であった一方、日本製鋼所室蘭製作所の製鋼部長として世界初の800トンインゴット…巨大な鋼の塊だ…精製に成功した「プロジェクトX」のような男だった。同時に家族を愛し、仕事を愛し、数十組のもの仲人をした「部下を愛する」男だった。

 しかし、善人は早死にをする、というジンクス通り父は太く短い人生を駆け抜けてしまった。

 ということで、オイラの当面の目標は親父の寿命55歳と7か月を超えること。などと殊勝なことを言いつつ、長命の母方の血を引いているらしく大した病気もなく来たオイラは、実は倍の110歳くらいまで生きてやろうと画策している。

 いい人でなくてもいい。バカでもいい。たいした仕事なぞしなくてもいい。多少人に嫌われたり、ウルせえジジイだと疎まれててもいい。ふっふっふっ、オイラは110歳くらいまで生きて、親父のハナをあかしてやりたいと思っている。死んで花実が咲くものか、だ。

 親父、あの世であと60年くらいは待っててくれい。わっはっはっ
by masami_ws | 2010-05-15 23:16 | 鎮魂の辞

土方歳三命日? 違うんだなあ

 1869年5月11日、新撰組鬼の副長として恐れられた土方歳三は、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の最前線で、迫り来る新政府軍に対し最後の防戦を試みるもついに銃弾に倒れる。享年35歳。
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 土方の死を境に、日本で初めて選挙によって榎本武揚をリーダーとして選出した北海道独立政府「蝦夷共和国」側は総崩れとなり、僅か半年でその夢は潰えた。上の写真は、土方最期の地と伝えられる函館市若松町の慰霊碑。

 実は、その5月11日という日付、オイラも明治維新後の話なので勘違いしていたが、実は旧暦。だから実は今日は土方歳三の命日ではない。本当は6月20日だということを先日、お邪魔した北海道森町役場のWカマツ課長に、函館空港への道すがら教えていただいた。

 この物静かなWカマツ氏、オイラと同い年とは思えない落ち着きぶりなのだが、歴史の話になると熱い。どう見ても明治維新のこの時代を見て、土方歳三にも会ってきたかのように、遠くの景色に目を走らせながらいろいろなことを教えてくれる。おりしも北海道は春の花が一気に開花。

「梅も桜も辛夷(こぶし)の花も一緒に咲いている蝦夷の春を土方はどんな思いで見ていたのか」

などと情感を込めて話すのであった。

 何せWカマツさんの町、森町の鷲の木海岸は、土方歳三が死の前年の秋、榎本武揚らと共に初めて蝦夷地に上陸した場所。Wカマツさんは、そこから土方らが函館(当時は箱舘)の五稜郭まで歩いた道を実際に歩いてみたりしている歴史フリークぶり。
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 鷲の木海岸に立つこの立て札もWカマツさんが仲間たちと建てたらしい。それにしても、土方歳三も、ここから同じ駒ケ岳の姿を見たのだろうなあ、と思うと感慨もひとしお。

 ついでに「土方歳三も旨いカニを食ったのだろうか?」などと考えたが、不謹慎だろうか。歴史は考えるほど深いのであった。
by masami_ws | 2010-05-11 23:52 | 鎮魂の辞

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